ふじおか@黒姫
はてさて…この店について一体どう書いていいものか…。単純に「人生で一番衝撃的な蕎麦屋」とだけ書いて終わりにしたいところだが、それでは書いた事にならない。この戸惑いは様々な言葉に出来ない理由によるが、まず言える事は、ここまで蕎麦という素材を研ぎすましてしまうと、最早蕎麦と呼んでいいものかどうか分からなくなる、ということだw。勿論これ以上無い賞賛の意味で言っている。見た目、香り、腰、喉越し、歯応え、味、どれをとっても鮮烈過ぎて最早これまでの(決して多くない)経験値を総動員しても判別不能なくらい別の価値を持ってしまっている。何か科学的な方法や、もしかすると呪術めいた手法まで用いて強制的に純度を上げたのではないかと妄想してしまうくらい、『蕎麦過ぎて』頭がクラクラしてくる。仮にこれを蕎麦とした場合、これまで俺が食ってきた『蕎麦と呼ばれるもの』の9割以上は蕎麦ではない、ということになってしまう。少なく見積もってもそれくらいの差はあるのだ。
もともと蕎麦食というのは、他の料理以上に求道者を虜にする何かがある食文化だと思うが、本当に極めてしまうと、その価値体系をも突き破って、そのテリトリーにいる人間には判別不能なものになってしまうのだという事が思い知らされる。したがって、この店を基準に今後の蕎麦食を楽しもうったってそうはいかない。今後この店を越える蕎麦を食べる事は叶わないだろうと思うと、「ああ、(少なくとも今)食うんじゃなかった…」という気持ちの方が強いのが正直な感想である。そうなのだ、蕎麦という料理を「突き詰めた」という意味において、この店以上の店は恐らく無い。それは食の満足度とは別の話だ。この店に心底尊敬と畏怖の念を抱くと同時に、全く、とんでもなく厄介な店に行ってしまったものだという気持ちが未だ心から離れない…。
名前自体は、その評判も含めてもう随分前から知っていた。しかしこれまで行く事が無かったのは、勿論その悪過ぎる立地や、完全予約制で昼の一回転のみ、という食う以前のハードルの高さもあるが、美味こそ何よりも優先される俺にとっては、それ程大きな障害にはならない。恐らく上記のような事態を予見した俺の第六感が拒否していたのだろう。この店は危険だとw。そしてそのアラートが示す危険度は全く正確であったと。これより先の文章はなるべく完結に記すよう心がける。そこには『この感動は、俺の筆力で書いてもどうせ伝わらない』という諦観がある事はあらかじめ正直に記しておく。
ここの品書きは至ってシンプル。というより、選択肢はほぼ無い。コース仕立てになった蕎麦料理に、追加そばやそばがきを追加するくらいのものだ。店指定の時間に着いたら黙って座って待つ以外する事は無い。ちなみにその日の予約人数が揃うまでは始まらないようなので、恐らく遅刻は厳禁だろう。我々は5分前には着いたが、既に最後の到着客だったw。なんだそのやる気は。
まずは季節の地物山菜などを盛り合わせた前菜がくる。山芋のとんぶり和え、山菜の白和え、キノコ、インゲンなど。死ぬ程美味い。完全にノックアウト。この場所の背後にそびえる黒姫の山の命そのものにかじりついてるような錯覚に陥る。これだけでも殿堂入りの美味さだ。山に抱かれていない都内でどんなに頑張ったってこの味は無理だろう。
蕎麦粥…筆舌に尽くし難いとはまさにこの事。鼻孔と口中に満たされる濃厚な畑の空気。たまらん。
そばがき…もう書くのやだw。俺にはこの凄さを伝える自信が無い。今まで食ったものとは全く次元が違う。勿論時期(11月も後半になった頃)も良かったのだろうが、垰やかな食感と鮮烈な香りのコントラストは無二の物である。そばがきだけでなく、つけタレからちょんと乗った山葵までなんと隙の無い事か。特にこの山葵の鮮烈さといったら…薬味だけのためにこんな山奥まで来るに値する、と思えるほどのものは初めてお目にかかった。
そしてあっという間にそば切り。冒頭に書いた通り、凄過ぎて呆然としか出来なかった。そしてその自失っぷりは半年近く経った今も続いている。この蕎麦を体験した後に見えてる景色は、それまで見て来た景色とは確実に違う。それくらいの事を書かないととてもこの蕎麦の凄さが伝わる気がしない。そしてそれ以上の事を書く気も起きない。つけ汁や薬味の隙のなさもそばがき同様とだけ付け加えておく。
これまでの流れから、当然隙のない物が出てくるであろうことは容易に想像がついたが、この漬け物にここのポタージュ系そば湯の組み合わせによる多幸感は、最早この世に代替が効くものなど存在しないだろう。この至福は今でもハッキリと舌の上に刻まれている。
余談だが、この日の客は、我々と同席した父娘二人以外は皆バスで来た団体で、父娘の娘の方は終始携帯いじっているし、団体は老若男女様々だったが、いかにも蕎麦に五月蝿い蘊蓄野郎が同行のばばぁ連中にずっと講釈たれていて、ここ数年無い程不快な客層だったが、あまりの凄い蕎麦体験によって、そんな連中のことは、スーパーの刺身パックに入ってるプラスチックの菊にも満たないほどの小事になってしまった。
さて、うちのblogの中では、茨城の慈久庵がこれまでで最高の蕎麦屋という位置付けであった、というよりそれは今も変わらない。これからも変わらず『お勧めの蕎麦屋教えて』と聞かれれば、『色々あるけど、まずは慈久庵へどうぞ』というだろう。これは、都内の名店からその辺の町の蕎麦屋までひっくるめて、比較して理解出来る美味さだからだ。俺の中では今回訪れたふじおかは、そういった他者との比較で判断出来る味の善し悪しを軽く超越してしまっている。鮮烈さと垰やかさ、洗練と野趣、伝統的かつ先進的、食におけるあらゆる矛盾が何の不思議も無く同居していて、しかも他では矛盾に他ならない価値が、ここではそれ以上無い組み合わせとして成立している。最早時空を超えてるとしか表現のしようがない。たかが人間の俺には、もう判断のしようが無い次元の世界だ。そう考えれば、ここの店主がどこか既存の蕎麦屋では一切修行した事が無いという事実もさして驚くべき事ではないと感じてしまう。むしろ余計な修行が無いからこそ必然的に達成された純度であろう。
この店に来れば、間違いなく最高峰の蕎麦食体験が待っている事は保証する。ただし、皆さんが思う最高の蕎麦屋がどんな店かによって、感動はそれぞれ違ったものになるかもしれない。慈久庵でも薮蕎麦宮本でも、首都圏なら竹やぶ本店でも吟八亭 やざ和(ともにもう10年近く行ってない気がするけど…)でもどこでもいいが、調べがつく限り最高と思われる蕎麦屋を経験してから訪れる事をお勧めする。それまでに知っているそばの味が最高であればあるほど、衝撃も感動も大きくなる筈だから。