鶏料理 奄美@国際通り
というわけで、ついにやってしまった本日4食目(新垣ぜんざいをいれると5食目w)の食事。しかも焼き鳥w。「いや、食べてる途中で午前0時を越えさえすれば、これは明日の朝食である」と言い聞かせ(しかし翌日は翌日でしっかり朝食はとる)ながら、なんともイナタい雰囲気の路地を入って店に向かう。表の佇まいは至って普通の駅前居酒屋。しかし中は意外と雰囲気のある内装となっていて、この時間帯(夜11時半過ぎ)も相まって非常に落ち着ける空間となっている。
しっかり広い厨房に期待も膨らみ、中を注意深くみていると、異様な存在感を放っている年代物(というより最早遺跡級?w)のロースターが目を引く。なるほどこれで鶏を焼くのか。ますます楽しみになってきた。
厨房がよく見えるカウンターに陣取り、見るからに人当たりの良さそうなあんちゃんに適当な飲み物と『トリ』をすぐさま注文。出てきたのはこれ。これねぇ、期待を上回る美味さです。ジューシーさは若干足りないと思わせるものの、歯ごたえ、旨味、パリッとした皮目とホクッとした肉の食感のコントラスト(つまり焼き加減の良さ)、香ばしい香り、塩加減全てにおいて、今この時間に食うものとしてあまりのドンピシャ具合に吃驚した。思わずあんちゃんに『美味いですねぇ』とこぼした時に見せた笑顔がまた小気味よく、開始5分ですっかりこの店の虜になってしまった。
この店の食事メニューはとても少ない。トリ、レバー、ハツ、砂肝くらいだ。それゆえ当然全て頂く。まずはレバー。醤油で頂くのはちょっと珍しい。これも「お前、いい餌食ってんなぁ」と語りかけたくなる程wネットリとした濃厚な味わいで美味い。弾力のある歯ごたえもいい。トリを食った段階で容易に想像出来るクォリティだが、それに必要以上に応える一品。
続けざまに砂肝も登場。これまでの流れから最早説明は必要ないだろうが、この砂肝で特筆すべきは甘み。噛み締める程に甘みの広がる砂肝ほど幸せな食い物はない。
最後はハツ。これも説明不要だな。人生で一番美味いハツとは言わないが、この日ここで出会えた事に感謝せずにはいられない味わいが堪能出来た。それはここの内臓全てに言える事である。
食い進むにつれカウンター内のあんちゃんとも会話が進み、サービスで出して貰ったグルクンの卵の煮付け。あっさりとした味付けでしみじみ美味い。
そして最後はお約束、そばで〆る。魚介だしを感じない、純度100%の鶏ガラ出汁で食べるそばも実に幸せな味わい。個人的にはこの時食べたそばが、前2杯のそばに比べてひと際満足度の高いものであったのはなんとも皮肉な事であるが、ひと際単純で、だからこそ骨太な味わいのこのスープこそ、沖縄そば独特の麺の食感と風味に最もマッチしていると感じた。流石に腹も限界だったのでこのお椀一杯だけで満足せざるを得なかったが、食い終わった後も気持ちだけはどんぶり一杯を一気にかき込みたい衝動に駆られていたのは言うまでもない。
この店、味も雰囲気もさることながら、泡盛や焼酎、日本酒の品揃えも独特の拘りを持っているようだ。鶏好きだけでなく、酒飲みにもたまらない店である。相方はその部分でも相当楽しんでいたようだ。俺も、あんちゃん自慢の酒の数々を舐める程度にテイスティングさせてもらったが、確かにどれもオリジナリティを感じるものばかり。多くは語らないが、夜中3時までやってることもあり、飲みを目的に行ってみても十分楽しめるだろう。
鶏という食材は、内臓が美味くなるよう育てると精肉の味が落ち、あくまで精肉の味に拘ればその分内臓の味は落ちるという。モモやササミが美味いブランドだからといって、それに比例して内臓も美味いとは限らないということだ。歳をとったせいか、最近良く考えるのは、(鶏だけに限った事ではないのかもしれないが)人間の手を駆使してどちらかに脂や旨味を過剰に偏らせたものは、食材としてどうもあまり良くないような気がするという事だ。そういう意味では「ビールなんとか」とか「どんぐりなんとか」みたいなのもその類いかもしれない。人間に置き換えて考えた時に「そんな事したら、明らかに不健康になるか、最悪死ぬでしょ」というような育て方をせず、人間でも心身ともに癒されるような育て方をされたものだけを食いたいと、最近特に思う。これは別に、最近特に問題になってる「食の安全」の話とは全く違うレイヤーのものである。その背後にはあくまで純粋に美味い体験をしたいという想いしか無い。
そういう意味でここの鶏の味わいは、内臓、精肉のどちらかに偏った印象は無く、さぞかしのびのびと健やかな育てられ方をしたのだろうなという感覚を持った。店名から奄美の鶏なのかと思ったら、今帰仁の方で育った鶏だという。それを聞いて、今日見てきたばかりの、今帰仁城をとりまくのあの素晴らしい風景の中に遊ぶ鶏たちの姿を想像したら、何とも言えない幸せな気持ちになった。俺が沖縄という土地の食に期待していたのは、こういう想いを抱かせてもらう事なのだとこの時はっきり思い知ったのだ。