助六@関
披露宴も無事終わり(まだ東京でのパーティーがあるが)、仕事も小休止に入ったので久しぶりに書き始めたのに、このブログを始めてから一度もやったことがなかった、書き込み保存忘れによる内容喪失…悲しい。しかもあまりにショックで暫く放置しておいたら、その時何を書いたかすっかり忘れてしまった。久しぶりのエントリーだというのにテンション落ちまくりですが、そんな事は読んでる人には関係ない。エントリーを上げる事自体久しぶりでカンを取り戻すのにも一苦労ですが、ヨチヨチと始めたいと思います。
岐阜県の関という町は、日本刀好きの俺としては、世界にも名を知られる名刀匠、孫六兼元の里として見過ごせない町である。岐阜市内から車で2、30分で行けるので、しばしばカミさんの実家から東京への帰り道に寄って、刃物会館を冷やかしたりしつつ、ここの蕎麦を食ってから帰る。ここと、後日紹介する予定のメッゲライ・トキワは、関では外せない佳店である。ともに泉さんに『行ってみ』と勧められた店だ。
パスタマンを名乗る前は、蕎麦にも深くハマっていた。パスタほど上手くいかなかったが、自分で打ってみたりもしていた(全く美味しくなかったけどね…)。蕎麦に関しては完全に東高西低だと思っている(そして実際今まではそうであった)俺にとって、西の蕎麦というのは、はっきりいってあまり興味のない対象であった。この店もご多分に漏れず、泉さんの勧めが無ければ行かなかっただろう。
俺の思う蕎麦の魅力とは、一言で言えば、キレだ。蕎麦自体も、かえしも、まるで日本刀のようにキレ味が鋭く無い事には、蕎麦として成立しないと思っている。大雑把にいうと、今までの俺の経験では、東で味わえるキレを西に感じる事は少ない。西の蕎麦にはどことなく人の良さというか、丸さを感じてしまうのだ。有無を言わさず一刀両断してしまう容赦のなさを感じない事が多い。抽象的だが、これまでの印象はそうだった。
そして、泉さんの紹介というのもあるが、刃物の町、関の蕎麦屋に、果たしてそれに相応しい切れ味が備わっているかというのも興味があったのだw。その結果は以下に。
まずは身欠きにしんを摘んでみる。繊細で丁寧な仕事。矛盾すると思われるかもしれないが、この身欠きにしんという食材は、先ほど俺が語った蕎麦の魅力と違った魅力が求められると思う。だから関東で食うと、味付けが濃過ぎてニシンそのものの旨味が消されてしまってる物も多いが、助六のものは安心して食べられる。干物ならではの深みのある旨味を引き出すには、微妙にコントロールされた味付けが不可欠だ。つくづく西の食い物だと思う。
事前に、こちらは山菜や茸の扱いが上手いとの評判を聞いてたので、舞茸を天ぷらで頂いてみた。舞茸は味が濃くて美味い。衣や揚げ具合は田舎風というか、素朴というか、一流の江戸前天ぷらのような洗練は無いが、田舎のおばあちゃんの家で食べるような安心感のある食感(勿論素人では到底真似出来ないレベルでの話。あくまで方向性の事)だ。蕎麦屋の天ぷらというのはこういうものだと思う。
いよいよ本命のせいろを。食べたのは年末だったので、まだまだ蕎麦の香りが充分感じられる時期である。それに見合った香りと甘みは充分であったが、全体にやはり西らしい優しさと調和の塊のような蕎麦で、俺の期待するキレという点ではもう一つという感じ。しかしそれが悪いというわけではない。江戸前の蕎麦で育った俺にとっては、少し物足りないというだけ。江戸前の出汁をただ『辛いだけ』と言い切ってしまえる安直な関西人が少なからずいてしまうのと同様の事だろう。文化の違いだ。
続いて田舎も頂く。これはとても美味い。荒く残った引きぐるみの蕎麦粉でもモゴモゴした感じはまるで無く、実に食べ易くそれでいて蕎麦の甘みと鮮烈な香りが浴びるように堪能出来る。田舎のような特徴的な作りの蕎麦だと、逆にきめ細やかな仕事が生きる。半分ぐらいは何も付けずに食ってしまった。これでかえしにもう少し醤油のキレが加われば、人生で1、2を争う田舎蕎麦になったであろうと思う。
タネものも行ってみる。泉さんにも名指しで勧められたきのこ蕎麦である。店主の人柄(良く知らないがw)すら滲み出てるのではないかと思えるくらい、優しさと滋味にあふれた一品。この一杯の為に遠方から訪れる価値のある、間違いなくこの店のキラーメニューであろう。余計な味は感じさせず、ひたすらキノコの旨味の凄さを思い知る事が出来る。タネものにこそ、西の蕎麦の真骨頂が見えるという事を、この一杯で知る事が出来た。
最後に変わり種を。田舎をさらに太く、フィットチーネ状に切った円空鉈切り蕎麦。決して食べ易いものではないが、噛み締める程に蕎麦の味と香りを堪能出来るという意味では、これ以上の出し方は無いと思われる。味は田舎同様素晴らしいのだが、例えばパスタにおいて、麺の特徴に見合ったソースを合わせるように、かえしにも明確な変化をつけるとさらに面白いものになるかもしれない。
パスタだと自由な発想で多様な価値を認めるのに、蕎麦だとどうしても『こうあるべき』という保守的な考え方になってしまうのは、恐らくそれが俺にとって帰るべき故郷のようなものだからだと思う。生まれ故郷の風景が、再開発などでガラッと変わってしまう悲しさと同様の感覚で、蕎麦における『こうあるべき』が捨てられないのだろう。逆に、青山や六本木、品川の景色がどんどん新しく生まれ変わるのを見るのが楽しいのも、自分にとって必要な楽しみである。それが俺の作るパスタだと言えるかもしれない。時にはどうしようもない建物も建つけどw、それも含めて景観の変化のダイナミズムである。
助六のきのこ蕎麦を食べた時、ひょっとしたら田舎の景色に変化があるのも、見方を変えれば楽しいものかもしれない、と少し思った。勿論根本は変わらないが、いままでタネもの(暖かい丼ものの蕎麦ね)は余程の事が無い限り食べなかった俺がこれほど感動したのだから、本来変えるべきではないものでも、あまり『こうあるべき』に縛られるのは良くない事である。つまり、助六の蕎麦に『キレがあるかどうか』が問題ではなく、俺の蕎麦に対する、40年近くかけて凝り固まった概念を揺るがす程美味かった。それが全てであったという事だ。