とり料理瀬戸@市原
長かった。やっとここまでたどり着いた…。行ったのは2008年の9月23日で、これを書いてるのが2009年2月22日だから丁度5ヶ月前の話になるが、すっかりアップが遅れがちになってしまったここ最近でこれだけ書くのが楽なエントリーも無い。何故ならその記憶は今でも舌、目、鼻、耳にハッキリと残っているから。それくらい、たった一食の食体験として印象的なひとときだった。
名前自体は結構前から耳にしていた(dancyuか何かで見たんだっけな)。京都出身の友人も家族で贔屓にしていたという。しかし、さして強い興味も涌かずにこれまで行かずに過ごして来てしまった自分の嗅覚もまだまだ甘い。なんでもっと早く来なかったんだろうか。これ見よがしに金のかかったネームバリューのある食材も出なければ、これ見よがしなテクニックも仕掛けも無い。シチュエーションはありふれた長閑な京都の山奥の農家の離れだ。にも関わらずこれだけの感動をもたらすのは、月並みだが一言で言えば正直さだろう。供される料理は店名そのままの極めてシンプルな鶏料理のコースなのだが、そこに出される素材は、鶏は勿論野菜もこの一軒のこじんまりとした農家でおばあ自らが育てたものだ。そして上の写真にもあるが、野菜を作ってる畑も鳥小屋も自らの案内で包み隠さず見せてくれる。鶏は予約時間から逆算して捌き、一切冷蔵庫には入れない事や、野菜を育てる肥料は鶏の生んだ卵の殻などを使って作った堆肥である事など、その料理が生み出される環境やプロセスまで丁寧に解説してくれる。そこには新しさも独創性も無いが、ゆりかごの中のような安心感と、○○(←各自して欲しい人の名前を入れて下さい)の膝枕のごとく身も心も任せたくなる信頼感がある。あらゆる点において何も疑いを持たずに済むという至極当たり前の事が、外食にとってこんなに感動を生む要素になるということに気付いてしまう事は、そんな現状を想えばある意味でとても悲しい事ではあるが、これを書いている今はただただこういう店が存在してくれている事に感謝する以外の感情は置いておく事にする。食事は勿論、この一軒の農家にいる時間の全てにおいて、間違いなく2008年最高の食体験の一つであった。
しかし書くのが楽とはいえ、この種の感動は、色々と言葉で説明したり、他の店との比較で出来を語ろうとするとあの感動が色あせるような気がして、シンプルに「美味い!」以上の説明をしにくい。例えばこの突き出し。ピーマンとジャコ、砂肝とキュー裏の和え物であるが、味付け自体はなんの変哲も無いストレートな物で、せいぜい砂肝の方は少し唐辛子を効かせているな、くらいなものだが、何しろそれぞれの素材の味の濃さが半端ではないのだ。特に野菜の味、旨味の強さは軽く衝撃的なくらい。そして砂肝とキュウリの相性…砂肝の持ち主の育った小屋から作られた堆肥で育った野菜という関係性が影響あるのか分からないが、そんな想いまで抱かせる小鉢である。
そして程よいタイミングで早速この店の真骨頂であるお造りが登場。いやぁ、もうこの写真見て察して下さいとしか言いようが無い。写真でさえこの艶かしさだ、実際に目の当たりにすれば一目で普段食っている鶏とは次元が違う事が分かる。熟成させた肉も美味いが、やはりこの鮮度と瑞々しい歯応えには抗し難い特別な魅力がある。モモ、胸、ササミ、砂肝、レバー、ハツなど、これまで既に何度も食べた食材には、実はうっすらと1枚ベールがかかっていたのだということが思い知らされた瞬間だった。部位ごとの違いがこれだけハッキリと分かるという経験を、誰しも一度しておいて損はない。
焼き物。皮付きのモモをただ炭火でよく炙っただけのものである。味付けは塩胡椒のみ。この味の濃厚さに比しての後味すっきり感は、単に鮮度が高く素性が明らかなだけでは説明がつきにくい。どんなブランド鶏にも負けない個性と主張を感じるものだ。一番好きな宮崎の鶏すら凌駕するほどのキャラの立ち具合は、このおばぁ個人ブランドと言って差し支えないだろう。一緒に焼いたししとうのこれまで経験の無い鮮烈な甘みすらかすむ程、このモモ焼には感動を覚えた。
そしてあっという間にメインに到達。品数は少ないが早くも精神的には投資に対して十分以上の多幸感で満たされている。おばぁ自ら丁寧な説明を交えて順序立ててすき焼き鍋に仕立てていってくれる過程を見ていると、最早脳内では感動の音楽とともにエンドロールが流れる始末。そんな状態で直後にどれほどの感動が待ち受けているのか、この時点ではまだ知る由もない。おばぁの説明は素材についてや作る過程でのポイントなど多岐に及んだが、それらは全て「何故鶏の鍋はすき焼きにするのが一番良いのか」の一点に収斂されていた。この、料理を運んでくるたびに我々の居る離れに長居してあれこれと世話を焼きながら長話していくおばぁの人柄がいいのだ。その日の昼は予約が我々のみで、おばぁを独り占め出来たのも少なからずこの店での感動に結びついている。
完成…の写真ではないけど、完成後は写真撮る事すら忘れる(俺にしては珍しい)くらい夢中になって食ってたので一番美味しそうな写真がありません。見ての通り鶏肉の他に玉葱、長ネギ、キノコ、豆腐、シラタキなど、鍋としていたって普通の素材が、普通の割り下と砂糖、出汁による味付けによっていたって普通のすき焼きの佇まいとなっている。これが…言葉ではとても説明つかないほどの感動的な味わい。どこをどう食っても美味い。何が凄いって、素材間の主従が完全に破綻しているほどどれを食っても主役級の存在感なのだ。鶏が凄いのは鍋になろうと変わらないのだが、それに負けない野菜の存在感が半端ではない。玉葱を口に入れた瞬間、思わずカミサンと顔を見合わせたほどだ。
勿論、その日の午前中生んだばかりの玉子も当然濃厚。おばぁが調味料であらかじめ味付けしたのかと疑うくらいの主張の強さだ。思わず一つ目は鍋に使われる事なく飲んでしまった。これだけ全ての要素の主張が強いのに、食べ進むにつれその全ての調和が見事に取れている事に驚く。役者のキャラが立ちすぎてストーリーが破綻するのかと思いきや、脚本や監督の手腕がさらに強烈なので、それらを力強くまとめてしまっているといった希有な様相を呈している。ここでいう「脚本や監督の手腕」とは、鍋の中にある具材以外の要素、環境、時間、おばぁなどを指す。これを不朽の名作と呼ばずになんと呼ぶのか。この、あらゆる要素の高次元でのまとまりも、この瞬間俺に食われるまでの間、それらが全て同じ土地(というか敷地?土?)で育ち、同じ水で作られ、同じ空気を吸っているからだろうという、もしかするとオカルティックと言えなくもない根拠に理由を求めたくなる。こんな鶏すき焼きは金輪際食った事が無い。鍋、それもスーパーに毎日並んでる素材だけで出来ていて、素人が自宅で作ってもそれなりに食えてしまう料理法に、ここまで『外で金を払ってまで食う意義』を見出させてくれる店は本当に少ないと思う。
なにせ二人で鶏丸々一羽分の鍋である。お造りで出て来た部位に加え、キンカンや玉紐、背肝まで入っていた。二人で片付けるにはかなりしんどい量であったが、その空前の美味さに満腹中枢麻痺させられて綺麗に二人で平らげてしまった。通常ならとても雑炊など入れる余裕は我が胃袋には無かったのだが、この流れで断念出来るわけが無い。せめて一口でも味わっておきたいという一念で茶碗に一杯作ってもらったが、最早一分の隙間もないと思っていた俺の胃袋は二杯受け入れてしまった。いや、胃袋さえ許せば飽きずに永久に食い続ける事が出来ただろう。なんとも恐ろしい鍋である。
この店の鶏で不思議な事が一つある。以前書いたが、内臓を美味くするよう育てるか、モモや胸など正肉として美味くなるよう育てるかで、鶏の味は大きく変わるという。肉に重きを置けば内臓が痩せ、内臓に重きを置けば肉が淡白になる。ところがここの肉の内臓と正肉の味わいはどちらも鮮烈だ。それは育て方に秘密があるのか、これ以上無い鮮度ゆえなのか…いや、ここではいつものような細かい事は考えないようにしておこう。そんな事はどうでもいいと思わせる魅力が厳然とあるのだから。
あまりの多幸感に食後しばし呆然とした後も、すぐにはおいとませず、おばぁと料理話に興じたり敷地内を散歩したりと、この、なんてことないが老舗旅館以上に居心地の良い環境を十分以上に満喫させてもらった。奇をてらわず、実にシンプルかつ深い味わいの料理を供するおばぁだが、新しい(?)料理にも興味津々なようで、俺が以前食った白レバーのムースや以前作った鶏を使った色々なパスタソースの話などに大した食いつきようで、是非レクチャーして欲しいと言うので、『プロが素人に何をおっしゃる…』と思いつつ、あまりに無邪気でノリノリなので、その場で講義をする事は避け、とりあえずうちのblogのアドレスを教えておくに留めた。もう70歳だと言っていたが、ねだるその姿は実に好奇心旺盛で愛らしかった。おこがましいという気持ちがあって、これまでお店に自分のblogを紹介した事は無かった(俺が教えてないのに見ていた例はあるが)が、その愛らしさに負けて教えてしまった。が、5ヶ月も経ってようやくこの店の事を書く事が出来ました。本当に遅くなって申し訳ありませんでした。って流石にもうチェックして無いかな。おばぁ、もし何か聞きたい事があればメールでなんなりと申し付け下さいw。
この、一本のいい映画を見終わった後のような食後感、素材の育成環境や鮮度がこれ以上無いという理由だけでは説明のつかない種々の感動。月並みな言い方でしか表せないのが歯がゆいが、金で買えない類いの特別さが、少し足を伸ばせばいつでも誰にでも味わえる。
俺が子供の頃、地元横浜のベッドタウンにもこういう家が僅かながらあった。友人の藁葺き屋根の家で、庭で放し飼いの鶏を、来客をもてなすために絞める手伝いをしたことがある(俺の仕事は羽むしり)。こういう経験があるか無いかは、今思えば、食というものに対峙する上でとても重要な事だったと思う。だからこそ、この店のような存在の有り難さを身にしみて分かるのだと思う。
よくスーパーに並んでいる『正直村のなんたら』とか『がんこじいちゃんのホニャララ』的な食材が、本当は正直村ってのは村でなく株式会社である事や、『そもそもがんこなじいちゃんが作っているかどうかなんてどーでもいいわ!』という事を誰でも認識している世の中w、それでも売り手は臆面も無くそんな商品名を付けてしまい、消費者は「分かっちゃ居るけど」一瞬反射的に手に取ってしまう。食品不安の進んだこの期に及んでまだこういうのが無くならないという事は、例えこの先どんなに食品に対して信用出来ない世の中になっても、消費者は全てを自給自足出来ない以上、どこまでも売り手、作り手を信頼せざるを得ないからだ。そんな世の中の動きには何ら関わり無く、昔も今も一貫して『嘘が無い』という、このご時世『不思議の国』としか言いようが無いこの店にこそ、誰が付けたかも分からない★が付いた店なんか差し置いてまず行くべきである。そこで得られるものは、このエントリーを読んだだけではとても分かり得ない無二の価値である。