要庵西富家@河原町
明石から始まったこの旅の最終日を迎える地に、大阪でも神戸でもなく京都を選んだのは、「今年で40才にもなったし、俺でももう流石にその資格はあるだろう。」という気持ちだった。とにかく一度、京の数寄屋造り老舗宿の「おもてなし」というものを満喫してみたかったのだ。
この宿に泊まれる事になる一週間前、通常ならひと月前には全ての行程を決定しているところだが、仕事の忙しさにかまけてギリギリまで宿を決められずに、気付けば俵屋も柊屋もすでに満室、たまたま空きが出たということで、最後に電話をかけたこの要庵のみ予約する事が出来た。電話口に出たのは、序盤の会話だけで電話の向こうにいる姿が容易に想像つく程ご高齢のおばあちゃん。名前や住所等、思わず苦笑するほど何度も聞き直された。勿論その宿の事は信用していたものの、この一連のやり取りで「おいおい、大丈夫かよ…」と一抹の不安が生まれなかったわけではない。良くも悪くも「若い宿」との評判だったはずなのに、事前にこういう心配をさせられるとは思わなかった。
道中、秀吉とねねが通った有馬の湯を堪能しつつ京都に入った時は、日もすっかり暮れていた。まだ紅葉には早い時期ではあるが、徐々に涼しくなりいい季節になっていた京都の賑わいは結構なものだ。車での移動は多少難儀した。宿の前に到着し、おかみさんを助手席に乗せ、宿が契約している駐車場に案内してもらってから歩いて宿に戻り、やっと玄関の引き戸を開けた。末栄堂の「堀川」(帰りに寄ってたまたま買ったら同じ香りだった)が香る玄関先の小上がりには、実にいい笑顔のおばあちゃんが頼りなげに出迎えてくれた。開口一番、「電話では耳が遠くて何度も聞き返してしまってご免なさいねぇ。でも、優しく根気よく教えてくれて、パスタマンさんの人柄にとても感動して嬉しかったわ。本当にありがとう」と言って、かすかに潤んだように見える目でじっとこちらを見ていた。宿でいきなりお礼を言われたのは初めての経験だったが、「おもてなしなんて、何も堅苦しく考えるものじゃなくて、一期一会の心のふれあいというだけよ」と言われているようで、なんともほっこりした気持ちになったのは言うまでもない。この瞬間、「京の老舗宿」という威厳に少なからず構えてしまっていた自分を恥じ、変な先入観は全てそこに置いて中に入る事が出来た。なるほど、やはりこの歳になって、資本主義的思考から離れて物事の価値を見出せるようになるまで、「京の老舗宿」をあえて体験してこなかったのはやはり正解だったと思う。
この宿の素晴らしさの全てが食に集約されているとは思わないが、やはり期待に違わぬ食を堪能する事が出来たのは幸運だった。錦市場にほど近いこの立地に、どれほどの魅力的な食事を楽しめる店がある事か。それらを全て後回しにしても全く後悔はない食事であった。まずは夕食から。
八寸。才巻海老旨煮、柿玉子、秋刀魚幽庵焼、栗甘露煮、小芋衣担ぎ、麩田楽、百合根団子、酢橘釜(イクラと長芋)、鱧煎餅、揚げ銀杏、紅葉麩。それぞれ個別に語る事はしないが、流石に京のおもてなし面目躍如といったところ。まぁ永久欠番的一品があるわけではないが、これら全てで一つの料理と考えると腑に落ちる。ビジュアル的にも味のバランス的にも、この宿の一口目として十分印象に残る仕事である。
続いて煮物椀。清し汁仕立て、月見豆腐、海胆葛叩き、松茸、針海苔、柚子、芽葱。旨い。言葉にして素材を書き出すと「さて、それぞれ喧嘩させずにどう合わせるか…」と途方に暮れそうであるが、それぞれを楽しんでも崩して合わせて楽しんでもどう食っても美味い。料理に関しては評価が分かれる店という印象だが、この出汁を味わう限り、確かな地力を感じる。やはり見ず知らずの他人の評価なんて全く当てにはならない。
全ての料理の中で唯一「普通かな」と言えてしまうのがこのお造りか。錦市場が近いだけに余計にそう感じるのかもしれない。鯛はともかく、戻り鰹の脂の乗りを十分に堪能出来なかったのは残念だ。ただしツマの大根は美味いw。
ところがこの梭子魚(カマス)の棒寿司となると話が違う。シャリの酢の風味に負けない旨味を、炙ってさらに活性化させた身閉まりの良い梭子魚は、いつまでも噛み締めたい衝動に駆られる。
焼き魚は甘鯛の若狭焼き。小さなイチジクと稲穂が季節を主張する。若狭焼きといっても味醂等調味料は控えめで、淡白な甘みを殺さないバランスは実に好み。皮目の焼き具合も申し分無し。鱗が口に残る事も無い。
丸湯葉包み。鼈甲餡に浮いた湯葉の中身は百合根だ。生姜が効いている。京の湯葉として十分以上のクオリティ。その優しい味わいは「これから徐々に寒さが増してきますので、お体に気をつけて」と言われているようで、満足するとともになんだか気恥ずかしくも嬉しい食後感だった。
あっという間に食事。汁は白味噌仕立てで芥子を溶いてある。冬瓜のみの具。ご飯は零余子ご飯で、朴葉で包んであるが餅米は入っていない。漬け物は長芋の粕漬け。零余子と呼応させてある。まさに晩夏から秋にかけての素材である。この白味噌の汁も本当に美味しい。優しい甘さが零余子のホッとする味に実に良く合う。
デザートは梨のコンポート。甘藷(サツマイモ)のムースに浮かべてある。一貫して芋や百合根、穀類のほっくりした味で繋いで行くコースの〆には相応しいデザートではないだろうか。上品な甘さは想像通りで裏切らないなぁといった感じ。
続けざまに翌朝の朝食に移る。切り干し大根に小松菜、ひじきなどド定番なおばんさいが並ぶ中、秀逸なのは中央に鎮座する自家製のちりめん山椒。これは今まで食べた中で間違いなく一番美味いジャコだった。聞けば少量だけ作り置きしてるので分けてくれるとの事。当然買って帰りました。これでパスタ作ったらさぞかし美味いだろうが、さすがにそんな事はしませんw。これに暖かいご飯以上の組み合わせは無いのだから。
他にシャケや玉子焼、身欠きニシンなど、驚く程オーソドックスな品々が並んでちょっと拍子抜けであったが、質は勿論高い。ただ、夕べのシンプルながらも流れに気の利いたセンスを感じる夕食からするとあまりにドラマが少ないのは少し疑問に思った。まぁ見た目は普通でも、そんじょそこらの朝飯とはどう考えても一線を画すものであるが。
鱧の赤出しは関東人にとってはそれだけでとても嬉しいものだ。ジュンサイが入ってたらもっと嬉しかったところだが。
漬け物は、錦市場にある主人お気に入りの漬け物屋で購入しているという。甘めの梅、香り高い沢庵、キュウリも上品な青臭さがたまらない。梅は帰りに買って帰ろうと思ったが、店の名前を失念してしまって行けなかった。また宿泊した時にでも聞こうと思う。
この宿の良さを一言でいう事は難しい。主人と女将は若いが、その祖母とおぼしきおばあちゃんの目がそこかしこに届いていて、京にあっては若気の至りかと思わせる分かり易いサービス(入り口のお香や風呂場のクーラーボックス、庭先の素焼きの置物など)も良い意味で1枚フィルターがかかっており、フレッシュさと年期が上手く同居している。これは俵屋など年期の重厚さを誇る宿にはなかなか出せない味ではなかろうか。立派なワインセラーが有名であることから、酒を楽しみにしてくる客も多い要庵だが、それもここの居心地の良さからすると枝葉のように感じる。あくまでも食事を目的にうかがったのだが、宿泊して食後の静けさや風呂まで含めて味わってこそ、ここの食事の良さが堪能出来ると思う。「京の老舗旅館」というものにどんな価値を見出したいのかにも寄るが、「おもてなしの気持ちに本来難解な作法なんて要らないんだよ」という事を教えてくれるこの宿の空気は、俺にはこれ以上無いくらいフィットしていたのだ。