山茶林泉@岐阜
うーむ…ここはなんとも表現に困る店で、今年一番の「問題店」と言っていい店である。勿論、ここに紹介する以上悪い意味では決してない。山の麓の廃校跡に建てたという店舗もシチュエーションも、年期は感じないがなかなか風情があって素晴らしく、こういう環境で普通に基本に忠実な美味しい鰻が出てくれば、そのギャップにそれだけで既に価値があると言って良かったのかもしれない。しかし出てくる鰻はなんともアヴァンギャルド。何故鰻という食材にこういう処理を施すのか。鰻という食材が本来持つ価値を一旦全て解体して、あらためて店主の思い入れでもって再構築するかのようなこの店の手法は、単に金払って料理を楽しむだけの側としては手放しに賞賛するわけにはいかないのかもしれない。何故ならそれが鰻である必然性を見出すには相応の経験値や知識が必要となるであろうから。
しかしここまでやるという心意気に、現時点で何らかの意義を見出すのは俺にとっては難しいけれど、良い意味で何か新しい発見の予感をひしひしと感じたというのもまた事実である。そういう点でこの店は問題店と言わざるを得ないし、良い悪いは別にして、鰻が好きなら一度行ってみた方がいいということは断言出来る。そしてそこに、俺とはまた違った何か意味を見出せる人がいれば是非教えて欲しいと強く思う。今回この店を紹介する最大の理由はそこにある。
この店のメニューは基本的にうな重とまぶし重の二種類だけ。前菜の数で値段と名前が変わる。俺の頼んだまぶし重の山ノ窓は最も前菜の多いメニュー(5品)である。その前菜が写真。出汁巻き、胡麻和え、お造り、豆腐とあと一品(んだったか忘れた…)。この中で印象に残るのは豆腐、というより豆腐に乗っかってる、大根おろしにネギや鰹節、干し椎茸などを和えて作った付け合わせ。食べてみればなんてことはないアイディアだが、豆腐と合わせるプレゼンテーションとしては秀逸。前菜の段階ですでにある種の充実感を得られる。味のバランスも若干の酸味がいい塩梅で、俺にとっては今まで経験してそうでしてなかった味である。この時点ではまだ、この後普通に美味しい鰻が出てくると思っていたのだが…
運ばれて来て一瞬にしてある種の違和感を感じた。色味の薄さ、照り(の無さ)具合、見た事の無い断面形状(まったく反り返りが無い)…どれを取っても俺の慣れ親しんだ鰻とはひと味もふた味も違う。一言でいうと異様である。が、食べてみてその異様さはさらに拍車がかかる。なんだろうこの食感は。薄焼きせんべいのような繊細なパリっと感、旨味はちゃんと存在しているが、肉痩せ感の所為か食事と言うよりスナックのような食後感。鰻という食材にどうやったらこういう佇まいと食感を与えられるのか想像もつかない。体験の新鮮さよりまず動揺が先にくるファーストコンタクトであった。しかし食べ進むにつれ、噛みしだけば旨味は残っているし、わずかに残るカワギシのゼラチン質も効果的に機能を果たしている。甘ったるさが微塵も無いタレの味付けのバランスの良さも確信犯と言わざるを得ない。店主がこの鰻で何を主張したいのかはこの時点で皆目見当はつかないが、何か強い意思のもとにやっているのだろう事は痛い程感じた。
そして出汁に浸して食べたときになんとなくそのコンセプトが見えて来たような気がした。俺にとってひつまぶしという食い物は、名古屋特有のハイブリット感からくる、どちらかというと「際物」「カウンター」の部類に入る料理法で、決して鰻の王道に勝るものにはならない(単純に、どうして鰻をああいう風に食うのか必然性を全く感じない、むしろ矛盾すら感じる)、つまり俺にとって全く重要視出来ないメニューであるが、もしあの食い方に強引に必然性を与えるとするなら、こういう回答は一つの正解なのかもしれない。つまり、鰻という食材に、旨味を保つぎりぎりのところまで「軽さ」を与える事で、サラッとお茶漬けにして食べる必然性を与えようとしたのではないかと。確かにここの焼き方は、ひつまぶしの食い方をした時に最も料理としての調和を見て取れたと思う。「そもそも精力つけようと思って鰻食いに来てんのに、極限まで軽くしてどうしようってんだよ」という突っ込み所はあるにしても、ここの鰻を出汁に付けてサラッと食ったとき、その茶碗内には一つの調和が確かに生まれていたのだ。そして、別に鰻にアッサリ感を求めない俺でも、そこに一つの価値を見出せたのは紛れも無い事実である。
この鰻を「鰻の新たな可能性」と見るか、「鰻本来の持ち味を全く生かさないもの」と取るかの判断は、現時点では俺には難しい。しかしこの店はそれを確固たる意思のもと確信犯的にやっているのは明確だし、それを享受する側はその志、勇気を否定する事は断じて出来ない。現にお客の大半を占めるご老人たちがガンガン食い進めている様を見て、この方向性が間違いだなんて言えないし、少なくともある程度年をとって脂っこいものがすっかり駄目になった人が、鰻という食材の持ち味を体感するのに、これ以上無いプレゼンテーションだと言う事は充分理解出来る。少なくとも、鰻本来の濃厚な味わいを十分楽しめる俺としてはまだ全く必要のない、余計なお世話的アプローチであるが、その必要性は周囲の、一人では歩く事もままならない(座敷に座るもの辛そうな)老人たちの食べっぷりが十分証明していた。そういう人の為に低い座椅子を多数容易してある事からもそれは明白だ。
ある知人の信頼置ける「焼きのプロ」が、有り難い事にその後行ってみて軽くレポートをしてくれたのだが、その人曰く「恐らく鉄板(フライパン?)を使っているだろう」「焼き置きをしているかもしれない」との事だった。あの反り返りの少ない焼き上がりは、網ではなく鉄板で(恐らくコテ等で押さえながら)焼いているからなのか。しかし炭火っぽい香ばしさも残っている事から、一度網焼きしてから仕上げに鉄板で押してるのかもしれない。そしてその間にインターバルがあればそれは焼き置きという事になる。確かに鰻屋としては比較的早い時間で出て来た。真偽の程は分からないが、それくらい特殊な事をやっていてもおかしくない味わいである。それを手放しで賞賛するには、俺には鰻の経験値も知識も全然足りないが、「あらゆる人に鰻の価値を楽しんでもらいたい」という思いの元にこの鰻を「発明」したのだとしたら、例え自分の価値観にそぐわないとしても、その志を心から応援したいと強く思うのである。